第35話   庄内竿の一考察)                   平成26年9月15日 
去る13日に母方の釣り好きで一番仲の良かった従兄弟が享年75歳で亡くなった。毎年晩秋になると自分が竿を作る為に苦竹を掘って居るのだが、少し余分に採った分を届けていた。体力は落ちていたものの、決まって春になると竿伸しを楽しみにして待っていた。竿を伸すことは、自分より数段上で、最終的な仕上げは彼に頼っていた。来春からは、もうそれが出来ない。父母の最後の別れでも家族にも涙を見せた事がなかったが、ついつい涙が出てしまった・・・・。
そんな竹竿好きな彼を思い出して書いた一文である。

 庄内竿を堅く曲がらぬ竿にするには、元々素性の良い白竹(何百本の中から選び)を煤棚で乾燥し油分を取り、毎年煤棚に上げて煤を付けて煤気で赤黒くするが良い。と云ったのは土屋涯が、子孫のために書き遺したと云う釣りの極意書「垂綸極意」の中に書き記した言葉だ。土屋(18571938年 庄内藩士土屋伊教の長子として生まれる。明治22年から大正2年まで鶴岡・新庄・酒田の裁判所に奉職。酒田の本立銀行、飽海郡耕地整理組合に勤務その後昭和2年から8年まで信成合資会社=酒田の本間家に勤務)は、 信成合資会社の時期に本間祐介と出会う。大正14年昭和天皇の摂政の宮時代鳥羽絵風の絵画御覧に入れたほどの達人であった事から、下宿に訪ねてきた若く釣り好きの本間祐介の求めに応じ庄内の磯釣り風景、逸話等を中心に「鴎涯戯画」に画いた。これは庄内の釣史を知る上で格好の資料、教本となっている貴重な本となった。
 現在白竹を産する藪は、全くないと云ってよい。全て大なり小なりの斑入りの苦竹である。それでも若干ではあるが、の少ない竹を白竹と称し珍重しているらしい。そんな竹でもすこぶる貴重品なのである。何故なら斑入りの多い苦竹と比べると明らかに堅い性質を持つ竹であるからである。竹から油分をすべて抜いてしまうと云うのもどうかと思うが、竹から水分を抜くと竹が固くなると云うのは分かる気がする。完成後毎年煤棚に上げて洗っては、その竿に和蝋燭を塗り、矯めて鍛え上げると煤に含まれる油や和蝋燭の油分で竹肌は漆のように燻されて茶色に変化する。すると竿は重厚な趣と品格が備わり100年以上の実用に耐える竿と変化していく。
 実用100年以上と云うのは日本全国何処を探しても、ここ庄内でしか見つからない。残念ながら煤棚に乗せて、薪の煤で油分を竹に吸わせる事出来ない現在、新竿ではもうそんな竿は出来ないのが実情である。白竹は昭和初期でも、ほとんど見当たらなくなったとされている。これも公害の一つではないかと云う説がある。と云うのは、根上吾郎氏の「随想 庄内竿」の中に中央の偉い先生に手紙で問い合わせたと云う一節がある。白竹に斑が入ると云うのは、ウイルスが原因だと云う返事がもたらされたと云う一説がある。明治大正までの釣竿がほとんど白竹だったのが、昭和に入った頃から急速に入り多くなったと云う事実からそのような説が出て来たと思われる。西洋に追いつけ追い越せで工業化が、あまりにも拙速になされて来た結果自然環境破壊が自然豊かな庄内を汚染してしまったとも考えられるのである。